大判例

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最高裁判所第二小法廷 昭和61年(あ)193号 決定

主文

本件上告を棄却する。

理由

弁護人遠山泰夫の上告趣意のうち、判例違反をいう点は、所論引用の判例はいずれも事案を異にし本件に適切でなく、その余は、単なる法令違反、事実誤認の主張であって、刑訴法四〇五条の上告理由に当たらない。

所論にかんがみ職権で判断するに、一、二審判決の認定するところによると、被告人は、業務として普通貨物自動車(軽四輪)を運転中、制限速度を守り、ハンドル、ブレーキなどを的確に操作して進行すべき業務上の注意義務を怠り、最高速度が時速三〇キロメートルに指定されている道路を時速約六五キロメートルの高速度で進行し、対向してきた車両を認めて狼狽し、ハンドルを左に急転把した過失により、道路左側のガードレールに衝突しそうになり、あわてて右に急転把し、自車の走行の自由を失わせて暴走させ、道路左側に設置してある信号柱に自車左側後部荷台を激突させ、その衝撃により、後部荷台に同乗していた甲及び乙の両名を死亡するに至らせ、更に助手席に同乗していた丙に対し全治約二週間の傷害を負わせたものであるが、被告人が自車の後部荷台に右両名が乗車している事実を認識していたとは認定できないというのである。しかし、被告人において、右のような無謀ともいうべき自動車運転をすれば人の死傷を伴ういかなる事故を惹起するかもしれないことは、当然認識しえたものというべきであるから、たとえ被告人が自車の後部荷台に前記両名が乗車している事実を認識していなかったとしても、右両名に関する業務上過失致死罪の成立を妨げないと解すべきであり、これと同旨の原判断は正当である。

よって、刑訴法四一四条、三八六条一項三号により、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり決定する。

(裁判長裁判官藤島昭 裁判官牧圭次 裁判官島谷六郎 裁判官香川保一 裁判官奥野久之)

弁護人遠山泰夫の上告趣意(昭和六一年三月一八日付)

第一 〈省略〉

第二 上告理由

一、原判決は最高裁判所の左記の判例に違反する。

昭和四一年一二月二〇日判決刑集二〇―一〇―一二一二

昭和四二年一〇月一三日判決刑集二一―八―一〇九七

昭和四三年一二月一七日判決刑集二二―一三―一五二五

これらはいずれも信頼の原則の適用を認めた判例である。原判決はその八丁表九行目乃至同丁裏一行目において、本件に信頼の原則を適用すべきであるとの弁護人の主張に対し、何ら理由を付することなくその適用を否定している。

右の各判例に共通する判旨は、「自動車の運転者には、あえて交通法規に違反して不適当な行動をする者があるであろうことまで予想して事故の発生を未然に防止しなければならない業務上の注意義務はない。」というものである。ところでトラックの荷台に人が乗って走ることは法令によって禁止されている(道路交通法五五条一、三項、一二〇条一〇号)のであるから、このような交通法規に違反する行動をも予見する義務を認めて信頼の原則の適用を否定した原判決が、右の各判例に違反することは明らかである。

なお右の各判例はいずれも自動車同士の事故であり、本件はこれらとは事案を異にするのではないかということが問題となりうる。しかしトラックの荷台という場所は通常人間が居ることがまったく予定されていない場所であるのに対し、路上という場所は最低限度自動車が通行するということは予定されている場所であるから、自動車が相手の場合の方が結果に対する予見可能性はより大きいはずである。その路上の自動車事故の場合でさえ予見義務がないというのであれば、荷台に人が乗っていることの予見義務がないことは当然であり、したがって本件は右の各判例の射程内にあるものと見ることが出来る。

二、原判決は高等裁判所の左記の判例に違反する。なお最高裁判所にはこの種の判例はない。

福岡高等裁判所宮崎支部昭和三三年九月九日判決高裁刑特報五―九―三九三

この判例は、事実関係が本件と極めて類似した得難い事案であり、その判決理由は本件にそのまま援用出来る部分も多い。原判決六丁裏四行目乃至七丁表五行目に示された判断は、結果の発生についての予見可能性につき、荷台からの転落死という具体的な認識の可能性でなく、自動車の暴走というものに一般的に伴う漠然とした危険の認識で足りるとしたものであり、これは右の判例における検察官の主張(検察官は「不特定人が乗車する列車を運転する機関手の場合」や「雑とうする場所を運転する自動車運転者の場合」を例示している)とまったく同様のものであり、検察官の主張を斥けた右の判例に違反することは明らかである。

ところで原判決は、その七丁表六行目乃至八丁表八行目において、結果的に本件においては荷台に人が乗っていたことにつき予見可能性があったという判断を示しており、これが本件の判旨であるならば本件が右の判例に違反するとの批判は当たらなくなる。もともとこの判例は控訴趣意書にも引用されており、原判決のこの部分は右の判例に違反するとの批判をかわすためにわざわざ記載されたものと思われる。しかし原判決のこの部分は本件の判旨であるとは認められない。その理由は以下の通りである。

第一に、この部分は全体に括弧が付されている。この部分が判旨でないと理解するのでないかぎり、このような括弧を付した理由が不明である。第二に、原判決六丁裏四行目乃至七丁表五行目の部分は、有罪の認定をするためにそれ自体完結した内容となっており、括弧部分がなければ有罪の認定が出来ないという前提には立っていない。括弧部分はいわば蛇足である。第三に、弁護人は控訴趣意において事実誤認の主張をまったくしていないのであるから、原裁判所が第一審判決と異なった事実認定をすることは越権行為である。第四に、括弧部分の認定は、「関係証拠によれば」と言うだけで具体的な証拠の引用をしていない。この部分の記載が有罪の認定のために必要不可欠であるならば、このような不明確な表現は用いないはずである。以上の理由から、括弧部分は本件の判旨であるとは認められず、括弧部分の存在は本件が右の判例に違反するという批判をかわす理由にはならない。

第三 職権破棄事由

一、原判決には以下のように判決に影響を及ぼすべき法令の違反があり、これを破棄しなければ著しく正義に反する。

1 訴因についての判断の誤り

本件では一審二審の全過程を通じて訴因についての裁判所の見解が三転している。まず起訴状朗読の時点においては、裁判所は本件の訴因は特定されていないという見解に立っていた。これは裁判所が検察官に対し強いて釈明をさせていることから明らかである。訴因が特定されているならば、もともとこのような訴訟指揮は違法である。そして第一審の審理は、検察官の釈明によって訴因が認識ある過失に特定されたという前提で進められた。ところが裁判所は第一審判決において突然、本件の訴因は始めから特定されていたとの見解を打ち出した。これは自らの訴訟指揮を違法と認めたものである。そしてその具体的内容を見ると、裁判所は認識ある過失と認識なき過失という二種類の過失の区別を否定して、いわば両者を包括する過失の概念を作り出し、被告人の行為はこの過失に該当するという意味で訴因は特定しているとするものである。原判決は第一審判決が認識なき過失の成立を認めたと理解しているようであるが、この理解は正確ではない。第一審判決の立場は、行為自体の危険性が極めて高い場合には、具体的な認識及び認識可能性の有無はどうでもよいとするものである。そしてこの点についての控訴に対し、今度は原判決が、本件の訴因は検察官の釈明を待つまでもなく始めから認識なき過失に特定されていたという、まったく新たな見解を打ち出した。

このように本件の訴因が何であるかという点についての裁判所の見解は、一審二審を通じて猫の目のように変転しており、被告人の側にはこれを事前に察知する機会が与えられていない。いわば審判の対象が何であったかということが判決を読んでみなければ分からないという状態が、一審二審と続いたものであり、このような事態は日本の刑事裁判史上にも希有なものであると思われる。訴因は起訴状朗読の段階で特定しているからこそ、被告人側は十分な防御活動が出来るのであり、本件のような審理ではとうてい被告人の権利の保障がなされたとは言えない。「著しく正義に反する」とはそのような意味であって、単なる修辞語ではない。

認識ある過失と認識なき過失とは常に訴因として別個のものである。その理由は控訴趣意書三丁表五行目以下に記載の通りであるからこれを援用する。第一審判決はそもそもこの点を否定する(少なくとも別個でない場合もあるとする)ものである。また原判決のこの点についての判断は必ずしも明らかでない。そもそも両者が訴因として別個のものでないならば、訴因がどちらに特定するなどということはまったく問題にならないはずであるが、原判決は訴因が認識なき過失に特定されていると言っていることから、両者が別個の訴因であることは認めているようにも見える。しかし両者が別個の訴因であるならば、そのいずれであるかが起訴状において明らかにされていなければならないはずであるが、原判決はこの記載は不可欠なものではないとしており(原判決三丁表六行目以下)、まったく矛盾した内容となっている。

そもそも本件の訴因が始めから認識なき過失に特定されているという原判決の判断は、とうてい承服出来るものではない。最も疑問なのは、原判決が荷台に乗っていた者の死亡のみならず、助手席にいた丙の傷害をも認識なき過失であるとしていることである(原判決三丁裏六行目以下)。しかし丙の傷害が認識ある過失であることはまったく問題はなく、原判決は認識なき過失という概念自体を誤っている。原判決は客体の存在の認識と客体の死傷の認識とを区別して、前者はあっても後者がないならば認識なき過失であるとするもののようである。しかし客体の存在の認識と客体の死傷の認識とは別個のものではなく、単に時間的推移に伴う変化にすぎない。客体の存在の認識は、事故が起らない場合はそれだけのものであるが、事故が起る場合には少なくともその瞬間には自動的に客体の死傷の認識となるのである。したがってここで問題になるのは、実際には客体の存在の認識だけである。原判決は、助手席に丙が乗っていたことの認識は起訴状に記載することが不可欠ではないから、荷台に人が乗っていたことの認識の記載も同様に不可欠なものではないとするようであるが、運転者が助手席に人が乗っているかいないかを知っているのは当然であり、当たり前すぎるからわざわざ記載していないだけのことである。したがってこの記載がないことをもって丙の傷害をも認識なき過失であるとすることは、まったく誤った見解であり、これと荷台に人が乗っていたことの認識とを同一に扱えないことは当然である。

以上に述べたところから明らかなように、本件の訴因は当初は不特定であり、検察官の釈明によって認識ある過失に特定されたか、さもなければ終始不特定であったかのいずれかである。したがって本件は無罪とするか公訴棄却とするかのいずれかしかなく、原判決及び第一審判決がいずれも法令の適用を誤ったことは明白である。

2 結果の予見可能性の具体的内容

原判決六丁裏四行目乃至七丁表五行目に示された判断がまったく不当であることは、既に判例違反の主張において述べたところであるが、ここでは判例とは無関係に法令適用の誤りとして主張する。その理由の詳細は控訴趣意書七丁表七行目乃至九丁表六行目に記載の通りであるから、これをすべて援用する。中でも「自動車の運転に伴う危険というものは、あくまでも進行方向の路上という限定された直線的な範囲のものであって、運転に過失があったからといってこの本質が変るわけではない。」「たとえ運転上の過失によって進行方向の路上に対する危険がどんなに大きくなったとしても、その危険の大きさは荷台からの転落についての責任とはまったく無関係である。」という点を繰り返し強調しておく。

3 信頼の原則の適用

本件に信頼の原則を適用すべきであることも、既に判例違反の主張において述べたところであるが、ここでは判例とは無関係に法令適用の誤りとして主張する。予見可能性の有無は予見義務の存在を前提としたものであるが、本件の場合はそもそも予見義務自体が存在しないと考えるべきである。

二、原判決には以下のように判決に影響を及ぼすべき重大な事実の誤認があり、これを破棄しなければ著しく正義に反する。

原判決はその七丁表六行目乃至八丁表八行目(以下括弧部分という)において、結果的に本件においては荷台に人が乗っていたことの認識可能性があったという判断を示している。括弧部分が本件の判旨とは認められないことは既に述べたところであるが、いずれにしても判決にこのような記載がある以上は、これを放置するわけにはいかない。

仮に本件の訴因が原判決の言うように認識なき過失であるとしたならば、荷台に人が乗っていたことの認識可能性の有無こそが当然最大の争点となるはずであるが、ここで特に注意すべきことは、被告人側がこの問題について本格的な主張立証を展開する機会は、一審二審を通じてまったく与えられていないということである。それは訴訟の展開を見れば明らかである。まず第一審の弁論においては、荷台に人が乗っていたことの認識可能性の有無についてはまったく論じられていない。弁護人はこの時点においては本件の訴因は認識ある過失であると理解していたのであるから、これは極めて当然のことである。そして第一審判決も、荷台に人が乗っていたことの認識可能性があったという判断は示していない(第一審判決五丁表四行目参照)。したがって当然のことながら、控訴趣意においてもこの点にはまったく言及されていない。仮に第一審判決が荷台に人が乗っていたことの認識可能性があったという認定をしたならば、当然事実誤認として控訴理由の一つにされたはずであるが、これでは主張のしようもない。ところが原判決において突然括弧部分の判断がなされたのである。このような経緯を見るならば、被告人側が一審二審を通じてこの問題について本格的な主張立証をしていないのは、極めて当然の成り行きである。したがってもし上告審がこの問題について十分な検討を加えないならば、被告人側にとっては、場合によっては最大の争点となるべき問題について本格的な主張立証を展開する機会を、三審を通じて完全に奪われることになる。「著しく正義に反する」とはそのような意味であって、単なる修辞語ではない。

さて括弧部分の認定は、いずれも何ら証拠に基づかずまた経験則にも反する独断であり、とうてい承服することは出来ない。まず「人がトラックの荷台に乗ることは時にはあることであり、これについての認識可能性は一般的に存在する」としている点であるが、これはまったく経験則に反している。我々は毎日路上において何十台というトラックが走っているところを見かけるが、荷台に人が乗っているところを目撃することなど、年に一回あるかないかであり、極めて異常な事態と言っても少しも過言ではない。したがって括弧部分の認定とはまったく逆に、「認識が可能であるという特段の事情」が認められない限り、一般的に認識可能性はないと言うべきである。次に「荷台にすでに乗り込んでおり、あるいは乗り込もうとしていたのであれば、その状況が被告人に見えることはもちろんである」としている点であるが、これは何ら証拠に基づかない認定であるのみならず、その趣旨すら不明である。「見えることがもちろんである」ならば被告人か丙は当然気付いたはずであり、二人とも気付かなかったということは「見えることがもちろんではなかった」ことにほかならない。

最も問題なのは、「荷台に人が乗り込むと車体が相当に揺れて運転席に座っている者にそれが感じられるから、この場合の認識可能性は一般の場合より更に高く、当然に認識可能性があったと認められる」としている点である。具体的な証拠の引用はしていないが、この認定が徳重節雄ら作成の昭和五八年一一月一九日付実況見分調書に記載された実験をよりどころとしていることは明らかである。しかし事件当時における認識可能性の有無を、このような実験によって認定することなどとうてい不可能である。まずこの実験においては、これから乗ると断って乗ったのであるから、被告人が車体の振動に気付くのは当然のことであり、気付かないなどということは始めからありえない。また被告人が事件当時置かれていた状況というものは、その時一回限りのものである。日時は昭和五八年一〇月二日午後十時頃であってそれ以外の日時ではない。場所は甲宅のそばであってそれ以外の場所ではない。荷台に乗ったのは甲と乙なのであってそれ以外の者ではない。助手席に乗ったのは丙なのであってそれ以外の者ではない。被告人が車に乗ったのは運転をするためであってそれ以外のためではない。この時だけの一回限りの状況というものは、時と所を代えた実験を何十回繰り返したところで、絶対に再現出来るものではない。したがって認識可能性の有無を調べるためにこのような実験をすること自体が、まったく無意味なことであった。一人ならず二人の人間が現にまったく気付かなかったというのであれば、これはもはや認識可能性がなかったとする以外に認定の方法はないはずである。

以上の理由から明らかなように、荷台に人が乗っていることにつき認識可能性があったとする原判決の認定は、明白な事実誤認である。

第四 〈省略〉

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